青 雲 学 院 SINCE1988
授業形態
◇学習塾 個別学習
◇部活や習い事とも両立しやすい
◇日頃の予習・復習から中間・期末テスト対策、高校受験・大学受験まで個別に指導
港北区 富士塚 塾
妙蓮寺 錦が丘 篠原 塾 神奈川 松見町 菊名 塾
指導理念
独りで学ぶ習慣と能力を養成します
学校を出てからは、人は何事も自分で学んでゆかなければなりません。そのとき問われることは、独習能力の有無ではないでしょうか。青雲学院では、独りで学ぶ習慣と能力を養成することを、最も重要な仕事の一つと考え、指導しています。
今こそ「楠(くすのき)学問」を
梅の木は、生長は早くても大木にはなりません。転じて、進歩は早いが大成はしない学問を「梅の木学問」といいます。これに対して楠は、生長は遅いが大木になることから、進み方は遅くても大成する学問のことを「楠学問」といいます。「梅の木学問」ばかりが幅をきかせる今こそ、「楠学問」を提唱します。
偉大な人材を輩出した吉田松陰と松下村塾の理念に学ぶ
幕末の思想家・教育家、吉田松陰(注1)が、松下村塾(注2)で教育にあたったのは、わずか一年そこそこの短い期間であった。しかし、この小さな学舎から、明治維新という大革新に参画し、偉大な功績を残した多くの人材が輩出したことは、教育史上特筆すべき出来事である。教育の効果いかんは、時間の長短によらないことを痛感させられる。
当時、藩校明倫館は、武士の子弟のみに入学を許可し、一般庶民や下級武士の子弟は入学を許されなかったが、松下村塾は、身分や学歴はもちろん、それまでの人生に犯したミスさえ問題にされず、誰でも入ることができた。学ぼう、学びたいという切実な志だけが要求されたのである。
一定の日課時間表も始業終業のきまりもない松下村塾では、塾生は一人ひとり机を中にして先生と相対し、各々の能力に合った教科書について教えを受けるのが普通であった。「一人ひとりの持って生まれた力―天賦、個性をよい方に伸ばし、立派に仕上げて集めたならば、完全に社会の役に立ち得る。人は量こそ差はあるが、みな純金を持って生まれている。これを磨き出すことが教育である。」
これが松下村塾の教育理念であった。また教育の方法については松陰は、性急に焦らぬよう、徐々に良風、良習慣に同化させてゆけと説いている。
松下村塾が極めて貧弱な規模のもと、極めて短期間の教育で偉大な効果をあげ得た理由は、その教育目標が的確であり、教育方法が実際に根ざしたものであったことのほかに、やはり松陰という、類い稀なる教師が現れたことにある。「自分の後についてこい。」という燃え立つような師の意気に励まされて、塾生たちも真剣に勉強した。
今日、教育問題がいろいろに議論されているが、かつて吉田松陰と松下村塾がこの国に存在したことは、いかに時代が変わろうとも、われわれに大きな示唆を与えずにはおかない。
♦吉田松陰(注1)
1830~1859年。長州藩出身。54年、下田沖の米・ペリー艦隊(黒船)に密航を企てて失敗し投獄された。出獄後は萩で松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら維新の人材を多く育てた。日米修好通商条約に絡んで幕府を批判して再び投獄され、安政の大獄で死罪となった。
♦松下村塾(注2)
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。馬小屋に手を加えた八畳一間が教室で、増築した十畳半の控え室、あわせて十八畳半の小さな学校であった。